ふつうの概念

 

 新しく読み始めた本 

  鷲田清一(著)の序盤、

 

人の 心のバランスをとる「ふつう」

 心から納得できる

 従うことが出来る それ。拠り所の定点。

 定点の軸や方向を見失ったときの行動 

 選択 居場所は

 偏った へんさ を

  周囲に印象付ける、 と

 

  その定点をふつうと呼ぶならば。

  異様に満ちた風に見えるそれらも 

  また自然で 

  当たり前なことだけれども ふつう 

  なこと、

 

 迷って漂うことも、

 偏った場所に居座ることも

  快活に過ごす 愉快な暮らしと 

  おなじ

  「ふつう」という点で、

  逃避回避行動も

  不安を消す常同行動も。いっしょ

 

 

   とゆうなれば。

   少し著作の文をねじれて みれば。

 

  私の周囲の世間に 臆する

  気持ちも軽減される気がする、

  いや これ著作の真意

  そのままであろう たぶん

 

 

 

 

 

  どんな状況化であるか は 

  判断基準にそもそもないのです、

   かってに作られて 伝わる

   偏見に属した普通であるから

   そして そんなものは 

  至る所に転がっているから

   流れていく ものより

 

   動かぬ点 動かす点である事

   認識して入れれば 

   私たちは 皆ふつうを

   持ち続けられるのです。

 

 

 

 

 

 

   とか思いついては

 

    ホットココア飲んで 

  またふと 残りの内容物みて

   一口目の おいしさに感動して 

   落胆する。

 

   一口目の おいしさの後は 

   惰性だなあ、 とか

   思うと 

   ああこれ どっかの本で見たなと

    

  

   スープの残り汁を飲み干している、 

   みたく

   夫に先立たれ、

  独りで時を過ごす女性の

   想い 残された時間を味わう姿を

    

 

    毎度何処に書かれていたのか

    思い出せないけれど。  

 

 

    そうかあ  ココアの残りも

    私の愉しさが過ぎ去った跡と

    同じか、 と思えば

     どちらも 愛おしくそれなりに 

     味わえそうだ、

     おいしく。

   

    

  

 

 

 

 

 

特性の浮き彫り・不安

 

 特別、今になって思い始めたのではない。

 じぶんの特性と向き合い始めてから

  ずっと

  気づいていた事だけども。

 

 

 

 就労を強く意識して行動し始めて 

 最近、

  特性による じぶんの道の壁が

  おおく、おおきい

  壁となって 何処にも行けないように 

  閉じ込められてしまう。

 

  行動しようとする度に 壁が大きく

   多くなっていくように感じる。

  だから 逃げて 見ないように 

 行動すること 避けてきたのか、

   これ道理にかなってるね。

 

 

 

  ジェームズ・アレンやらは

  環境によって変わるものはなく、

  すべて内部で起こる 

 決定により物事は進むと いうけれど。

 

  外部の条件によって 

 動かされていく作用はあるように思う、

  共通するのは どちらも 

  内部を所持する 個人一人が

  変えていける 唯一の方法である 

  という事 

 

   度胸論になってしまうけれど、  

   ただの空っぽの度胸ではなく

   信念のある度胸だけが 

   生き残るのかな、

 

 

 

  

   誰から見たら のモノなのかにより

   見えたものは 変わるから。

    自分が 得ていく事 

  モノの違いに戸惑いはないけれど、

 

    遅れていくことに 惨めさを  

    というよりは、 

   自分自身、 遅れをなして 

   走っていく事に 疲れ。

   進んでいく速さに

  追いつくことにも しんどくて、

 

   ただ 疲れる だけ。

 

   でも これは傲慢なる怠惰と 

   呼ばれるものなのかもしれないな、

 

 

   疲れても 走り続けなければ

   現状を変えることも 

  追いつくことなんかもできやしない、

    皆と同じになるために はしる 

    皆が 走っているから 

    走るのではないけれど、

   自分が 進むべき道を知り。

   その道に走っているが他にも居て。

   それが出会いであるし、

   一緒に走るで 同じようになる。

 

 

   遅れ に見えるのは

   道が 自分の立ち位置が見えぬから。

   どんなに 早くとも 芯が 足下が 

   分からねば

    正しい判断には 近づけない、

 

    という事にして、 不安を消そう。

 

 

 

 

 

 

   じぶん一人で 

  生きていく事なんか毛頭

  出来る気がしないし。

   不安で堪らない

 

  ひどく疲れるのは 

その感情に寄り添っているだけなのかな、 

  大切な 守りたいものがあると 

  力が出る というし

   そこに 病や疲れとなって 

   埋められない感情に

   寄り添う 物なのでしょう、

 

 

 

 

 

  まだ 十一月は 始まったばかり。

 でももう十一月

   

   

      

 

 

  

  

私の わかるの基準。

 

 もうすでに 分かっていた事なので

 新たな 発見でもないのですが、

 

  行動に至るまでの その道のりは

  思えば 明確な 解答が

  いつもあるわけでなく

  その必要性私はいつもいらず 

 

  必要なのは 不明瞭な感覚のみ

  でも それがわかると 

  いつもこの上ない幸せ 感じ、

  セロトニン発生  心地よく

 納得して 確実性を自分で作っていける。

   分かる  に繋がる。

 

  その 不明瞭な感覚、 

  あえて言うなら似たモノ探し

  分からない  を例えた類似感覚を 

  当てはめてはめていく事。

   それ 関連事項ひたすらに

   思い浮かべるしか能がなかった

   私は 、自分で自分の

   行動のしくみを

   ちゃんと持ち合わせていたので。

 

   それが 何を意味していたか 

   よく知らない

   知ろうとしなかっただけで。

 

   すでに方法は私とともに居たのです、

 

 

    このしくみが、 日常の 

   社会のすべてに通用するとは

    思わないが、

    何も 方法がないよりは 

    断然マシなのであります。


 

 

  

   あとは とりあえず、行動の癖

   習慣つくるのみ。

 

    そんな私は最近また

    目まぐるしく 夢を見て。

    物凄い 迫力の 

   時に 恐ろしく。 きれいな。

 

    現日常とは裏腹に

    忙しく 勢いのある時が

    頭の中で起こっております。

 

     その裏腹の私生活で 

  長い一人の時間を過ごしておりますと

      モノモノの周囲から

   かけ離れたところにいるように

      思えたり。  

   不順な脳内物質やホルモンたちが

    それ増長させてまいるからつらい。

 

 

    でも これ 忙しく充実してようと

     そう感じやすいのは私の性かあ。

 

     孤独の概念をどう捉えて 

    寄り添って生きていくのか。

     生きてる間の 

    永遠の課題であります。

 

記憶のネジレ

 

 本を読んでいて ふと思い出した

 話の内容に ひどく執着する。

 

 どこに 書かれたモノだったのか。

 パラパラ パラパラ本棚と向き合うも、

 見つからず。

 記憶違いなのかもしれない 

 とも思えてくる

 確かに 読んだ みた文章なのだけれど、

 

 所々 複数の内容が入り混じって

 いるような気も

 しないでもない、

 

 記憶が ねじれてしまったのだろうか。

 そんなものか

 

 ただひたすらに、

 私が見つけられない

 忘れれいる、だけなのか

 

 

 こうやって 手元から

 離れていったものは

 文に限らず、 いつかまた再開できる

 時があるのかもしれない

 

 と 思うしか 執着との別れはできない。

 

必要な時 必要だと動いたときに

保管先からお出ましになる事

それ 約束ですよね、きっと

 

 

 

 

汚い よわね

 

 親戚 やら同学年やらの 話

 になると 親の表情が 

 気にしすぎなのであろうが、

 無性に 心苦しくなる。

 

 

 今更なのに  そうでも 今さら。

 

 

 

 

 

 

  全然頑張らずに 逃げたけれど。

  避けまくったけれど、

  でも避けながらも それなりに 

  頑張ったのですよ、

  無意味な 頑張り。 自己満の 

  何の実績にもならない頑張りでしたが

   無いにも等しい 、 バカげた3年。

 

  

 

  でも言葉がスラスラ出て来んで。 

  あとから見直せば、

 いろいろ非が沢山自身にはあったけれど、

   何も口にできんで つらかったんよ。

 

   どうにもならなくて 

   何でできないんだ 

   何でできないんだって

    変だって  

 そう言われないようになっても。

    いつまでも 

 無言の空気がそう言ってくるように、

    自分の内から毎回聞かされて、

 

    どうにもならない 

    偏桃体の異常は やっぱり

    昔からあって 小学一年生の 

    出来ないと指摘され

   指さされて笑われるっていう 

   、 それ

 

    まあ そうやって

   道徳に反する行為をしている

    教師は罪ではあったけれど。

   やっぱり、わたしにもそれなりに 

   指摘要素はあって

   こだわりによるルール違反とか、

   執着による行為の偏りとか。

   それやっぱり、 

   軽度な発達要素であって。

    それに関しては、

   だれに非があるないでなくて、

    知るべき特性であって。

 

   これからそれを高確率で、

   非とみてくるような社会に

   出なくてはいけないのだから。

   知るべきで 非ではなくて、

 

 

   その時認識せずに来たので。

   今知って対処しているわけで、

   私は 劣ってなんかいない 

   私は劣った存在ではない

 

    とか 疲れとともに、

  流れ出る自己肯定のようなもの。