電話 きもちの疼き

 

 耐える ひそかな反発心を 

 抑え込んで

 

 

 

 

 

 

 突然 鳴らないはずの 

バイブ音と 英字のなまえ。

  

  ああひさしぶりの でんわ有り。

 

 

うれしい

 

 

 

        私にもまだ 

    友達という存在は居たらしい

        よかった、

 

       どんなに孤独になれても 

        孤独からの変換が

       うまく機能していても。

       ひとと会話する 

       声の温かみを感じることは 

       とてつもなく

 

    惜しい 欲しい 在ってほしい。

 

 

 

 

    いつもの

   昔からの会話が あった

 

   いつも電車で一緒に 居た じかん。

 

 

   ありがとう

  と 素直に感謝したい。

 そんなに極上な存在ではないのよ、

 

 

    とか言いってしまうのは 

   欲深いからだけれども。

     一心同体てな 

  理解者とかでもないのよ、

     当然踏み込めない モノ 

   をお互い用していて。

      でも

 

     会話することで

    戻る 記憶とか、時間とか 

     戻ろうとする、

     意識 離れていきそうなモノを

  たぐり寄せることができるんだろうね。

 

 

 

    

 

 

  

  

 

 私の 偏見も

 つよい

 

 

 思い込みが 姿や モノの存在を歪める。

 

 

 

 それは日高のいう、

 

 イリュージョン のようなもので。

 説明がつかない事を 

どこからか当てはめて組み合わせた

 まがい物で

  否定しはじめてしまう

 

 

 なんて愚かなんだろう、

 

 

 

 

 

 

 

 

  話をしてみれば なんてことないのに

 

  自分の 受け取った

  存在物 が全てだと 

 どうして思い込むのだろう。愚かだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝手に

受け取った価値感・浅はかな偏見が

 生み出す 衝撃も でも知っているし、

 

 そこから発生した 影響物だって 

 とてつもなく 惜しいもの

 

 

  どうやって

  偏見 浅はかな思い込みと

  つきあっていけばよいものか

 

 

 

 

 わからないけど。

 

 

  わたしは ただ感謝したい、

 

  電話してくれた

  電話してまた応えてくれた 

 

気持ちが 晴れるのです。

 

 

 

   それと  

 まだ踏み込みたい 聞き出したい欲

     が 身勝手に 疼いて 

   押さえて。

  

   全てを納得したい欲に 

   飲み込まれないように。

    密かに耐えながら。

  もどかしい思いで 言う

 

     「ふうん。 

    そうなんだあ~ 、、 」

 

      と聞き流す 場面が

       残り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

     人の 存在は 

 どうにだって位置づけられるから。

     どこに どう重要視しようと。

     どう 捉えて、仕舞い込もうとも

 

 

 

      きっと

     存在は 

   変わることはない から。

 

 

      すこし づつ改良作業が

  必要なんだな、 フォルダにと

        入れて 保存。

 

 

 

 

      携帯の 写真も整理するし

     丁度。