小さない疑問。

 

 今日は お風呂でふと見た。

 

 正確には 聞こえて思うたなぞ、

 

 

  他にも重要な書きたい事が

  あったけれど。またいつもの

  お忘れ発揮で。

 

 

 

 

 

 

 

 

   姉が べレンダの窓を開け、 

 水を一気に振りかける音が聞こえた。

     ああまた  さっきそういえば、

     洗面所で水を汲んで

 

 

     そうまた  

  まだみ水を与えているのです。

     植木に

 

    もう2年前から 

 葉のない観葉植物 シェフレラの挿し木

     枝のみの細い枯れ枯れなのを。

     たまに  気分の乗る日に 

     気づいたときに、

      やらねばならぬ 

  とでも言う様にみずを 与えり、

      外に出して 光に充てて   

      外にだしっぱで。

 

     たまに 室内に戻して 

     戻す前に水やったりと。

 

 

 

 

     もう やっても意味のない

     モノ のような

     シェフレラには 悪いけれど

     専門的の事は分からないので、

    憶測の愚考でしかないが。

 

     水を与えてる のこそ 

    悪いように思うてたり。

     もう生きていないかもしれない、

     生命の有無はどこで

  判断をすべきか、 素人にはわからない

       まして  植物の

 

 

    でも  きまって  

    たまに稀に。

    まるで いつも決められたことの

    ように、 やらねばならぬように

   はたから見たらではあるものの。

    そうするのです、

 

 

    意味のないのに。

 

  

  でもそれは  彼女にとって 

  ある意味いみのある。

  小さな宗教のような

 ものなのかもしれないです。

 

  まあ  見方によれば、シュミ?

   気分屋の

    なのでしょうけど

 

  シュミ と少し違うのは何でしょう 

  ふと小さく無心に

   溜め込まれた 

 吸収せざる負えなかった、ものを。一息

   ゆっくり吐き出す、 感じですかね。

 

   

  そういった 小さな宗教を

  私も  何かに縋りたくて 

  不安から逃れたい焦燥感に

  居ても立っても居られない時

   ちいさい モノを

  縛り付けない程度に 自分の中に

   作っていくのは  

 上手く宙に浮けない時には 良い手段だと

    考え 見出したりもしましたが。

 

 

  この間 よんだ海猫沢めろんさんの  

  本にも書かれていて。

  取りあえず この忙しい環境を生き、 

  取りあえずやり過ごしていくには。

   一息一息 ついていく 

この小さい信仰のようなモノを身に付けて、

 

 

   滞る ことなく漂う術

 

   悪くはない 謎。