自分を追い込みたい

 

 

  今日は ただの何にもなく、

   最近の胸中吐露。

 

 

 

 

  スピリチュアル的な思考論に

   踏み入ってみたり、

   本の 動画の アニメの 

  世界からの理論抽出 から

   救いになるような 軸を

   探してみたり。 作ってみたり

   引きこもって から

   そんなことばっかりして、

 

  最後に 橋本治の本読んで救われた、 

  そしてそこからまた

   自分の現実世界との向き合い方も 

   探れる可能性も見出し始めた。

   まだ 見えたわけではない 

 かもしれない可能性がある気がするだけ。

 

   毎日 その可能性に寄り添うたびに

   自分の 視野の 興味の偏りに 

   ものすごい不便さと

   これから 歩んでいくであろう

   自立の日々にものすごい不安と

   恐怖 が襲ってくる。

 

   これも  脳の特性がもたらす、

  偏桃体の異常が原因しているという

   ことにしておきたい、

 

 


    人生は循環するゲームなのだ

 

   自分に言い聞かせる、 

   宇宙にある恒星たちも 地球も

   生と死も。 人間の恒常性も 

    ぐるぐるまわっている

 

   人間の体を構成している物質だって 

   ぐるぐるまわって 

   円を描いていると知ったときは、  

   かなり救われた。

 

   循環する 役目を知ったと

   でもいうのか 

  取り合えず、生きていても 

  いいんだ、 動けばいいんだ。

  留まりさえしなければ、停滞さえ 

  その時が来るまで しなければ。

 

 

   と 毎日 気持ちの

  滅入る回数が減った  うれしや。

 

 

  でも 人には 脳というのがあり

  精神が発達していて 

  気持ちが思う事が出来、

 

 私たちは これも循環させねば 

  ならないから痛い所。

 考えを巡らすのは得意だが、

 これを 応用し、 行動に繋げ 

   思考も 身体も

 影響し合いながら 

 流動体となり得なければ。 

  意味を持たない

  物質と化するらしく 頭が痛い、

 

 

 ここから まず、スタートか と。

 

 現実世界での立ち位置も 思考の仕組みも


 スタート地点である。 

 これからどうするものか、

 

 

 

 

だが 社会学の話などで

 今世界は 混沌さにまみれ だが 

  今までの分かるが

 通用しない 、そして分からないを 

 探っていいくという本来の道の

 あり方に戻った スタート地点であると 

 よく目にするし。

 

 スピリチュアルはあまり詳しくないが

 新たな 次元とか 聞きますし。

 

   こんな自分も

 許されるのかもしれない と思ってみる、

    それも 循環をし続け、

 分かるを増やしていくこと怠らなければ

  が前提であるが。

 

 

 

 

 

 

    The birthday のピアノ 

  を聴き始め   息を呑んで

    

    The birthdayの  

  レモンを聴き~      

 

    野良猫と見上げたよ 

 

    The birthday の なぜか今日は 

     で終わる。

 

   ずっと空を眺めている 

    鼻唄 空に溶けた

    鼻唄 空にきえた

 

 

 

 

  久しぶりの メロディーは 

  懐かしさをくれて

    頭が スーッと  する、

   居心地がいよい。

 

    

 

 

 

黒猫のひたい (著)井坂洋子 

 

 水色に

 少し不思議な 静物画のような

 抽象画の挿絵、表紙

 

 これまた 数年前に手にして 

 読みかけのまま放置していた本。

 エッセイには興味はあったものの 

  今ほど詩 や短歌に

 趣を感じては なかった というか、

  なじみがなかった ので。

  間違えて 買ったような 

 そんな印象のままに放置していた。

 

 

   東直子さんの短歌を読んでから

  こんなにも 今に集中できる 

   そしてエッセイとおなじく

  引き込む 力のある言葉に 

 連れていかれる場所があるかのような、

  手放せない 本か  と

 

   知ってからか

 

  印象は 記憶そのままにうーm 

  だったのだけれど。

   読み始めた今じゃ 恋しくて

  私の得意な強い執着が 

  発揮し始める。 すき

 

 

 

  今に浸れる 集中力を養ってくれる 

  そこにもだけれど、

  忙しく 脳が落ち着きない 

 また最近は 健康そのものに近づき、

  循環せねば 知ろうと 

  動き回らねば が脳との動きと反して

   うるさい。  

  その煩さから救ってくれるような 

  私の宗教かもしれない

   平穏ください、  に静かに

 答えて モノを傍に置いて行ってくれる。

 

    優しいのです、

 

 

 

 

 

 

 

  表紙・挿絵の 高橋千尋 さんの絵が

  凡庸な でも 凡庸さに 

 分からない怖さ  を感じる絵でして

  購入した当初は ?だったけれど、

  読む その文章に寄り添うように 

  人間の揺れる恒常性のこわさ

   でもどこか生き物の本質を 

 思い出させてくれる安堵感 にマッチ。

 

   素敵で この絵が無性にすき。

 

 

 

 文章の全部でないけれど  

 所々に出てくる  言葉たちが 

 時々思う 見えるモノせかい  を

 確かに 存在したよね と

  ノーマルな日常には 

そんな隙間のような時が 確かにある事

 

  いとおしくて  私のすべて

  それだけでは 

 生きてはいけないけれど。

 全てであること許される。

  本

 

 

 

 

   本書での

 「あてにならない 繊細で 

 信が置けない。すぐに変化するからだ

 でもその心によって人は生きている」 

   

  は 人との別れから

    立ち直れずにいる私に ひびく、

 

   心が変わるのは 

 生きているという証拠と思えば

    許していけるような気がする、

 

 

  そして 

 「非力な生き物の 呼吸の 息づく無」

  を感じて

  彼らに守られていることを  知った。

 

   

 

     

    

 

   

     

  

  

 

突然のおもい

 

発達を意識し始めてから、

もう一年経ち

 

就労支援も 来月で10か月になる。

 

 

 なかんかシビアな現実と 向き合うのが

 つらくはあるものの、

 

 最近新たに 自分の中での

 ステップが進んだ気もします。

 確実に、 そんなこんなをしていると 

 なんだか発達なるものが

 

 なんなのかよく分からなくなってきて。

  発達って 障害て  そんな差別、

  人種区別するほどのものであるのか

  自分の今いる 選ぼうとしている場所に

  疑問さえ感じてきたり。

 

   まあ、それは 社会に接していない 

   ゆえに生活するに不便を感じない

    から  。 私の発達の具合が 

 極めて軽度で 鬱や自己肯定感の皆無さが

    悪影響を及ぼしていた  

    からなのかもしれないが、

 

 

     でも相変わらず、 

 発達凸凹の激しさは身に染みて

 生活しております。

 

 

 

 

 

    自身の 不具合の原因 

    社会的無能さを自覚するのは

     社会を受け入れる、

  時たま過大評価しがちな傲慢さ

     を律するのに重要であるから。

     叩き込むけれど

 

     周りの社会の目は 

     すぐに不振の目で 

   一般の物差しをふるってくる、

     排除を得意とする 

    叩きの自覚を しない

 

 

      まして 内輪揉めで 

      忙しいらしく

     忙しいのなら 忙しいで 

     目に入れないでくれれば 

     まだ嬉しいのだが、

     排除の力はより増して 痛い。

 

 

 

そんな場所でどう生きろというのだろう、 

 とこれ無理難題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

   私の 物事の理解は 

   思っていたより以上に 

   ものすごく  ゆっくり 

   みたいだけれど、

 

 劣っているとは思わない。 

 それを決めるのは社会であって、

 私からの 目はそうは見えない

 そういった部分もあるけれど、

 それを決めてくる 物差しにも十分な

 不具合があるように思えるから、

 本当はどうってことないのです、

 

 

  薬によって 不具合さを修正など

  手助け にはなれど、

  本質的なモノを理解しないから

  社会的におかしい のに 

 より中途半端なおかしくない者が

 出来あがるみたいで

  私には合わない。

     

 

   脳の仕組み的に正確な手段であるけど

  人間の 生き物の命って 

  そんなものだけで 

  成り立ってはいないから

勿論、とてつもなく正しい効果はあるが。 

 ほかの成り立ちを無視して

 正しさを 取り入れたところで、    私 自身が 正常に。

望むように動くのかは  別なので。  

 

    ほかの 成り立ち  仕組みを

    徐々に 徐々に 理解し 

   拾い上げては はめ込んでいく。

 

    そんな地道な 作業は効果テキメン

  きっと よくわかるに

    繋がると信じます、

 

  

    だから  恐ろしく 

  抽象的なぼんやりとしたモノ

     ばかり 見えてきてしまうのは

     別におかしい事ではなくて

     すべてが 分かるように成るまで

     の 時間を 耐え抜く力を

     身に着けるための、

     分からなさであると 

 

     進む力であると 

     言い聞かせよう。

 

     

わからない という方法

 

 

  橋本治 の本です、

 

 彼の本は とても理屈っぽく、

 しつこい

 何度も同じこと を言う所に

 共感が好感になって

  でも それだけでなく、 

 その執拗な文章は 私のような

 理解に乏しい者に 

 言葉の本質から文章を紡いでくるので 

  とても 分かる、し ワクワクする。

 

  作者の言うように 

 とことんわからない バカ

  なのだろうし、 同時にそれは

  知らなくてもいい 意味を 

 どこまでも知ろうとしないと 理解に

  及ばない という、

  細部に偏り続ける特性からくる 

  バカ なのでしょう。

 

 

  序盤を読んでいても

  自分のバカさを 

 何度も突き付けられるし、 

  わからない  で覆われて

 動けなくなっている 特性を

 指さされるようで。

   少し悲しくもあります、 

  こんな事もわからないに

  注目されてばかりで

   何もできずにいる 発達特性の、

   分かる事ばかり

   繰り返してしまう発達特性の

 

    しかしそれは。

    分からない と向き合わずに

    正解を求めてしまう傲慢たる恥  

    と叱責され、

 

    また でも小さな言葉の

  意味合いから くどくど分かりづらく

  丁寧に教えてくれるので。 

  これこれ知りたい 

   こんな風に物事知りたかったのと 

   でもそれ ほんとしょーもない 

     分かり切っていること、

 でもそれを くどくど説明がほしいのと

    そんなことを 追い求めている

    書いていることに 小さく笑える。

 

 

 

 

 

 

 

    私たちは 今スタート地点にいる

 

 

    いろんな情報下で  彷徨い

    新しい 理論 正解となりうる 

    流行が見えずらく

     発信がどこから 

  されているのか  発信元が定まらなく

     ゴールが見えなくなった 今は。

 

    正解ばかりを 漁り真似 

  一定の孤独層を生み出し 排除する

 

   普通 の一般化が終わり。

  もとの オリジナルな孤独 理論で

   生きていく ことを始める

   再スタートである   と、

 

 

 

 

 

 

    

    それと 彼の理論の中で。

    へん  へんでない  

    の少数 多数の話では。

 

    へんでない という、

  排除する力と 孤立に陥る不安から

    多数が生まれる仕組みあれど。

  

   もとは へんも へんでないも 

   同等の立場にある 

   両立の存在であるモノ。

 

     

    仕組み上、 

 少数になる へんの存在だが、

    それにも 力がある。 

 

    ひっくり返す  力 

     長年強制的に

  向き合わされる相手の存在を

   見続けることによる分析 と批評 

   特性を持ち続ける信念から成る。

     

 

     二つの存在があることで 

  これまた循環しているように思えます。

      主張 批判 

     押されて 押し戻して、

      

      立場というのは 時に 

   ひっくり返る 変化しうるもので

    その変化に対応するにおいても、

    他者を見続けること

       をやめては いけなく、

   それは自己を存在させるためにも

       必要な。 

  二つの存在はなくてはならないモノ、

 

       そして自身の中にも 

  二つが存在すること 

 忘れてはいけない  と。

 

 

 

 

 

       私たちには 役目がある。

     循環させること、そして今は 

     ひっくり返せるちからがある。

         他者の主張を 

        批評を見ることで 

       排除の力で孤独を

  押し付けないよう 監視しながら。

      

    循環させるため 生きる、

 

 

        とてつもなく 

  無意味にさえ 感じてしまうような  

 壮大さで モノを作っているようですが、

       それでも  気持ち的に 

       何のために と

 

     くどくど  理由がないと 

     動けない 超論理主義者には、

      すっと 納得のいくモノ

      だったりするのです。

 

 

 

 

 

      そして   

   作者の 一文で。

 

 

 

 

     「わからない は

     あなた一人の恥ではない。

       恥だとしたら、

 

    この世のどこかに

    万能の正解があるとばかり

       信じて 簡単に挫折しうる

    自分自身の特性を認めないこと 」

 

      に 励まされながら 

          読み進む。

 

 

       

     

   

    

 

 

   

行って帰って 落着。

 

 

 暇なんてないはずなのに、

 私の からだ  

 決められ事から急速に離れたい 欲が。

 

 解放されまくりたさ が見えを張る と

 

 たちまち 暇になり堕す、

 

 

 

 

 

 

   飼い猫が ちょうどよく 

   かわよいポーズを

   背景フレームと一緒に

 重なりだして、 ああ カメラで記憶。

  記憶を画面に抽出、はやりの データに

  変えてください、

 

 

   そしたら 脳の欲の散漫さ発揮

 

  過去のデータが気になりだす、

  あ こんな顔で笑うんだと

  最近の私の汚い笑顔に 

  亡くなりし。祖父の面影発見に。

  嫌になりながら、

 でも 何度か見返すたびに、

  腑に落ちるような感覚

   あんまり仲良くなかったですけん、

   いいとこあんま なかった

   おじいちゃんに

   似てるて。 前から戌年同士で 

   へんな親近感 

   これ同類嫌悪っていうんでしたか

   

    やっぱ と認める

    しかないという諦めか

    うーん、 でも失礼にも、

    今いないという

    それまた 写真という思い出に

    付随したモノだからか。

    やけに 落ち着くように 

    落ち着かせた、よう。

 

 

 

  ほか  バラバラとデータに

  在る写真見ているうちに

 

   これまた 他の 

  私のモノにまで作用し始めて。

    変に納得、 自分の過去の

    愚かさ滲み出る。嫌やのに

    どんどん きもちがへんに

   落ちていって それは気分の

    悪化でなく、

   気づかずに 舞い上がっていた

   モノたちが 落ちてきて 着地。

   脳の 欲の散漫も 

  きれいにもとに戻って来る。 

  これしいて言うなら

   マインドフルネスなるものの、

   短歌読んだ際の。

    今一瞬に引き寄せられる

    感じに似ている。

 

 

 

 

   私の愚かさを 通して見えて

   くるものは

    私の歪んだ 思想?思い込みで

    見えていたモノが

    また違った 見え方として

    映し出されます。

     これもまた 実物ではないから、

     はっきりではないけれど。

     見えたモノも また思い込みで

     できているけれど、

 

 

 

 

 

   

 世代によって 価値や

 

 資産 崇めるもの 文化 伝統 ルール

 伝え方 違い、 いまが正しい 

 過去が間違いとか

  

 そんな風に 唯我独尊

 わたしが 私の見える世界が 

 大切なものがと

 思いがちですが。 私は愚かなので、特に

 

  データの撮影者が私でないから  

  とはまた別に、

 

 過去に戻る作用を 実感体感できる

  出来事に  触れることが

 そんな 自分の 今を見つめ直す

  とでも言いますか、、

 実際の身体は 身動きはしなくとも 

 なんだか とっても振り幅のある

  ちょっとしたひと時 

  今に また全てが戻ってきます、

 

 

 

 

   注意の散漫さも 集中と

   つらさ苦しさも 楽しさと

   正しさと 間違いも 

   痛みからの心地よさも

    激しさ 穏やかさ

 

   も みな循環して回りに回って 

     ゆらゆら。

    みな 行ったり来たりする。

 

 

   恒常性が働くように

 

 

 

 

 

  老いる 失う変化の怖さも

 

  和らいで 

 気持ちの良いものにほんのすこしだけ。