わたしの頭はおかしい。(ASD)

 

 わたしの頭は おかしい。

 

 いつも何かに 執着している。

 そして 新しい環境、

 知らないことに対する 強い恐怖から

 逃れられなくて 

  進んでいく 毎日

 変わっていかなくてはいけない 日々に

  戸惑い続け、 しんでいる。

 

 まるで 老人だ。

 世界に社会に取り残されて 

いくだけの存在

 

  しんどい存在だ、

 自身にしても 周囲からしても。

 

  気づいたら 

こんな老人に なっていたの、

 

 

  思えば

 いつも

  周りについていけなくて 

  ひとつの事柄だけをやりつづけ、

 食べ続け飲み続けた。

  理解がものすごく遅くて、

  なぜかいつも 私だけ例外で。

  認められなくて 居場所がなくて。

   じぶんの楽しみを見つけようと

   一つだけ やりつづけ逃げ続けたら。

  現実が 上手くいかなくて。

 でも楽しい事は自分の中にあったから。

  閉じこもれば 何ともなかった。

 

   外との 楽しみはどんどん

  かけ離れてって。

   会話が全然つかめなくて 

  勉強場は苦痛で分からなくて。

   でも 一つだけは

 楽しい分かる知識があって、

    それだけ取り組んだ。

   でも 一つだけでは 

  社会は当然認めなく、

   学びの場所は私の 

 学ぶ意欲と 体力を潰した。

 

   精神もおかしくなった

    楽しかったことも

  何にも感じなくなって

     常に 外部はわたしを

     責めてきた。

     年齢に応じた 

 生活が送れなくて。じぶんが醜かった。

    何もできなくて 

 何もやろうと思えなくて 

    好きなことにも何も見出せなくて。

 

    精神の死だった。

 

   それでも

   薬やら 運動やらで生き返らそうと

   まわりの罵声もあって

 (それだけではないね あと金)

     ひとりの 人から

  自分のせかいの狭さ

     よさ を私を見てもらえた。

 

 

 

 

 

 

   全てがそこからうまくいった 

  わけでなく、

   いまは  その人は いま居なくて。

   どこに行っても 

  上手くいかないのは 

   それからも続いた永遠と

 

    仕事 という労働はさらに 

   わたしに苦難で。 

     環境が私を排除した、

     私からも 身体が拒絶して 鬱。

 

 

    でも その鬱と向き合って

    今まで見えていなかった 

 知ろうとしていなかった知らない事が

     たくさん見えた、

  けしていい事ばかりでないけれど。

     どう修復していくのか、 

    習慣づけで 高めていくのか。 

  自分にとっての学びの得方が

     一般と違うのだと つよく思う。

 

   時間はものすごくかかるけど。

   その時間を 

 常に変化していく世間は待たないし、

    ついてはいけないだろうけど。

    出来るところまでやって

     野垂れ死に

    それがわたしの

 人生なんだな  と。あきらめた。

 

     受け入れる。

 

 

 

  自分の中では

 習慣による 

身に付けは得られているのだけど。

 なかなか 外部発揮が相変わらずで。

 

 

  いまは居ないあの人から

  人からの 

人との関りで得られる影響波は

   とてつもなく有益なのだと。

  実感したけど。

 

 やはり 人と沢山関りをもつのは

  何度試しても 

私には向いていないみたいで。

  勿論 影響波 は得られて 

  好ましいですけど。

   わたしの精神がもたない。

 

 

 

 

   でも

 影響波は欲しい 

なくては生きていけない。

  

 

 

 人がくれる 栄養物は、

  

コミュニティー による

 自分という自己形成

多角面からの情報取得また取得技術。

 

 多くに属すことができないのであれば。

 自分という 軸は 

 決して見失ってはならないし、

 自分で自己をつくるしかない。 

    でも宙に浮いてなきゃ

  いけないから、 根ははらない。

 

 

 多くと接することが難しいなら。

 多くのモノを見て 情報、

 影響物を得るしかない。

  人との関わりの多さに

 勝るものはないので。

   兎に角みるしかない。

  そして 自分の解釈を

   力にできるよう、集中。

 

 

 

  私は

 今でも 頭がおかしい。

 執着は コントロール法を自分なりを 

  見つけられたけど。

  今でも 年齢に適した生活は 

   取り戻せていない、

 

  周りよりはるかに 

 劣っている と認識せざる負えない、

 でも 私にはつねに的がある。

 その的が 社会と通づるものに

  成れればいいのだけど。

 

 的に向かって生きるだけ、

 毎日毎日 的を作る。

 

 

 

 

 

 

 



 少し前に、 チャット相手が

 

   「なぜ、

     今は見なくても 

  耳から必要な情報は得られるし、

      本など見なくても 

  豊かなせいかつができますよ、

     何故読むの?」

 

  と  言われて

 

   本は 文章活字から、 

   得られる豊かさ。

    紙の字からできる想像性が 

    違うからと。

 

    また 

それにただ私が固執しているだけなんだと、

     

 

 

  まあ 固執し続けていることには、

  変わりないのだけど。

 



   多角面から の気づきや

  得られる感覚。 

   読み直したいと 知りたいと 

  所持する。

  人との関りの代行品であるのです。

 

 

 

 

 

   前に Twitterでも 

本が友達といってもいいと

    言っていた人がいたし。

 

 

    読書尚友   

 

  本を読んで 昔の賢人を友とする 

    こと

   てなことばもありますし、

 

  言葉はいいなあ。学ばなきゃ、

 

 

   ちょっとカッコつけだ。