人が 失っているもの 2

 

 続けて 鷲田清一のエッセイから

 

 

 

   文明 技術の発達 

   作業の効率化によって

 

    人の顔 が失われているという。

   いわゆる、その人が作り出す雰囲気 

   性格が滲みだすモノ

    誰か を想う心が宿る場所。

  

  はたまた 記憶を作り出すプロセス、 

  記憶を引き出すなつかしさ のモノ

    身体の記憶。

 

 

 

     どちらも 人である 

    生き物である私たちの

     生きる上での大切な

     条件の源のような もの。

 

 

  記憶に関して

 

  脳が記憶という古い作業から

  解放されることで

   人間は飛躍的に 創造の仕事を

   作り出せる のかもしれないが。

   一方で 記憶は脳だけでなく 

  身体の記憶、(プロセスを含む記憶)

    が重要と他著書でも目にしたことが

 あり。物、事柄そのものの記憶 だけでは

 

    リアルに なつかしさを 

    思い出す事から 

   遠ざかった記憶になるであろうと

    

 

   日々生きていながら

 

   誰かを 想う顔 が

  珍しいものというのも

   虚しい、

 

 

 

 

   その虚しさ 埋めるためか

   昔の人が 制作した日常着を見たり 

   生きた文化を知ろうとする

   今になって、

   そこに滲みだす 

  時と人の間に生まれたモノ見たさに

 

   どんなに真似て 今に作り出そうと

    カクカク に型取られた制作物に 

    良さはない。

    伝える大切さはあれど、

     良さは そこには作り出せない 

    モノであると 再認識、

 

 

 

 

 

    再認識しようと 

    意識的に行動せねば

    思い出せなくなって 

  いるという事も ここでもまた  

     再確認、

 

 

 

 

 

    個人的な話

 

   自分の能力 

   学習のペースの遅さから

 このままでは やはり間に合わないので。

 

   時間を 時間を延ばす 

  いや短縮?でないと 難しい事

    が多く私にはあるので。

    何とか方法をとか 無茶な 

 脳のない考えを自分に突き付けたりして、

 

 

    でも この話からすると

     時間を超越して 

    得られたもの 能力に

     意味が果たしてあるのか。 

   ただもっと他に効率的現実的な

   方法があるだけなのか

 

   きっと そうなのでしょうけども、 

     何に いみを持たせるか で 

     超越したモノもまた  よし

 

それ出来るのであればよし になるのです、

 

      この世の中は