ひと の中身のようなもの
誕生日前のおやすみに
実家を離れ 都内ホテルで独りになる
気持ちよすぎて 全てから切り離されて
なんでもない自分になる。
日頃から なんにもない人間ではあるけれど、
へんなさみしさ とか 残された重圧感とか
切り離して。 社会とか 家族とかを渇望する
疎外感とか
人間的なつながり所属とか 消えて無い。
ああ 死ぬってこんな感じかなとか
思うたり、
場合によっては
繋がりに 飢えて 痛みにもがいてな 死
もありうるけれど、
こんな きれいな無もあるのだ と
実感 恐怖とか 何もない事への不安とか
もすらない、 何でもなくなるじぶん
こんなのが 死なら
その前に わたしは
しっかりと何かに所属し 自分というもの
形成される環境で 使い果たすエネルギー
何かに 還元してこんなふうに 無になりたいかも。
それは心地いいかな と思った。
疲れ果てて 個人的空間では
人は ぐでっと 表面からドロッと
流れ出るように 形を変えて
姿を変えて その人でなくなる、時
ある意味 個人の自分と思える 時
でもそれでは、社会空間での人とは
認めてもらえないので。
朝になれば ひとに
流れ出るもの押し込む 又はきれいに
処分して 元の形に戻す、
恒常性とも呼べる のか
日常での 私を作る、
多面的な生活環境では 普通に行われているこれ
でも 時々この過程を 見失って
認識できなくて 苦しむ。
これふつう なんですよ、 って言われて
ああ だから人が違うんだ、
じぶんの 矛盾する感情に悩まなくてもいいのだ
この世界の多面性 によるものだから
ね って
だから 表面で形作られた姿に
見惚れていては
人間まだまだです。
それは 私が その人が生きるため
整えられたかたち。
中に押し込まれた 一部が
見えて 初めてコミニュケーション
嫌いな 好きな
全て流れ出てくるもの 良さです。